【考察】彩色壁画が鮮明に残る「竹原古墳」の被葬者は誰なのか

雑記

▲竹原古墳奥壁壁画(【引用】宮若市 公式サイト

去年の兵庫旅以降、本業がちょっと忙しいことを言い訳にまったく歴史ロマン活動ができていなかったわけですが…。
近々、装飾古墳として有名な「竹原古墳」(福岡県宮若市)を見に行く予定ができました!
そういうわけで上昇気味なテンションを利用して、古墳の予習を兼ねた勉強カテゴリ記事を書いてみます。

「竹原古墳」とは

竹原の諏訪神社の境内にあり、6世紀後半につくられた古墳で、円墳の大きさは直径約18m、高さ約5m。円墳内の石室は複室(ふくしつ)の横穴式石室です。石室内からは装飾品(勾玉・ガラス丸玉・金環(きんかん))や馬具(くつわ・鞍馬、辻金具など)、武器(刀の鞘・鉄やじり)などが出土しています。そして竹原古墳の一番の特徴は、なんといっても石室内に描かれた鮮やかな壁画です!玄室の奥壁と前室の両袖石の計3箇所に赤と黒の古代顔料で絵が描かれています。数ある装飾古墳の中でもこれほど鮮明に残っている壁画は貴重で、竹原古墳は国指定史跡となりました。古墳の壁画は単なる文様ではなく、馬を引く人物、赤い火を吐く龍、舟や波、古代豪族を象徴するさしば(うちわのようなもの)などが描かれていて、考古学・美術的にも高く評価されています。人物のシルエットは、帽子のような冠をかぶり、膨らんだズボンに先のとがった靴と、高貴さを感じさせるファッション。
 
ここではなんと、ガラス越しではありますが、レプリカではなく実物の壁画を見学できるそうです!
国内でも屈指といわれる彩色壁画のっ!実物をっっ!!
しかも見学料は大人220円、たいへん安価で歴史ロマンを感じることができます。
いやあ、わくわくが止まりませんね〜。

被葬者は誰なのか?「竹原古墳」を考察してみる

古墳に関する文献(記録)はほとんど残っておらず(というか存在しない?)、多くの古墳は誰のものなのかがわかっていません。
それは「竹原古墳」も然り。
ですが、出土品や壁画、歴史的背景をもとに被葬者について特定は難しくても推測することはできるはず。
ちなみに発見当初の遺骨から、男女2人を安置したものと考えられているようです。

福岡県宮若市、諏訪神社の境内にある円墳で、昭和31年3月、旧若宮町在野の考古学者によって発見されました。 発見後、緊急調査によって、石室内の清掃と実測、壁画の模写が行われました。副葬品や死体の歯が大小二種類に分かれていることから、男女2人の死者を安置したものと推定されています。

【引用】会いに行ける古墳?日本史の教科書の表紙にもなった日本を代表する装飾古墳「竹原古墳」を見に行こう! | 福岡県宮若市のプレスリリース

豪族とその配偶者(王と姫)、ってことなんですかね?

 

ということで、今回は「竹原古墳」について、勉強がてらに考察していきます。
まあ、こちとら古墳に関する豊富な知識なんて持ち合わせていないので、ChatGPTの力を借りるんですけどね。
 
まず、出土遺物・壁画・時代背景を総合すると、被葬者はヤマト王権と関係を持つ、九州北部の有力な地方豪族」であった可能性が高いと考えられます。
その根拠は以下の通り。

1. 時代背景:6世紀後半(古墳時代末期)

この時期、ヤマト政権(後の大和朝廷)は九州を含む地方豪族との関係を強化し、中央集権体制を固めようとしていました。

北部九州は朝鮮半島との交易や軍事の要衝で、外交・軍事の前線ともいえる地域です。

→このことから、被葬者は軍事的・外交的に重要な役割を担った人物と推測されます。

2. 副葬品:馬具や武器類

馬具(雲珠、杏葉など)や鉄製武器が出土しており、これは騎馬の使用=軍事的リーダーであった証拠です。

→このことから、被葬者は騎馬武者であり、武装勢力の長だったと考えられます。

3. 壁画の内容:四神図・馬引き人物・波や船など

青龍・朱雀・玄武といった「四神図」は、中国や朝鮮半島の墓制文化を背景に持つもので、国際的な宗教観・宇宙観の受容を示します。

馬を引く人物・船・波の絵からは、死後の旅や霊魂の昇華を願う宗教的思想が読み取れます。「翳(さしば)」は身分の高さを象徴するアイテムです。

→このことから、被葬者は文化的にも高度な素養を持つ支配層であり、宗教・儀礼にも重きを置いた存在だったといえます。

4. 対外的ネットワーク:朝鮮半島との関係

壁画の技法や意匠には高句麗・百済の古墳文化との共通性が見られ、北部九州における外交・軍事ルートとの接点を示します。

→このことから、被葬者は対外交易・外交に携わっていた地方首長の可能性も。

総合すると…

「竹原古墳」の被葬者像(推定)は、

  • 九州北部の有力豪族で、ヤマト王権との関係を持ち、
  • 馬を操る軍事力と朝鮮半島との文化的交流を背景にした宗教的・儀礼的地位を持つ、
  • 外交と軍事の両面に優れた「国際派」地方支配者

だった?

6世紀後半(古墳時代の終わり頃)の筑豊地方

「竹原古墳」の被葬者が生きていた(と思われる)6世紀後半、現在の福岡県宮若市竹原周辺(つまり筑豊地方)にはどのような人々が暮らし、どのような「クニ(地域勢力)」が存在していたのか。

このことを踏まえて、被葬者の人物像を改めて考察していきます。

「ヤマト王権」との関係をもった地方豪族の存在

6世紀当時、日本列島では「ヤマト王権(大和政権)」が列島各地の豪族を服属させつつ、中央集権体制を形成しようとしていた時期です。

「竹原古墳」のような立派な古墳を築けたということは、被葬者が相当な在地勢力(地域の支配者)だったことを意味します。

このような人物は、ヤマト王権と密接な関係を結びながら、筑前地方(現在の福岡県北西部)で勢力をふるっていたと考えられます。

筑前国の周辺勢力と「筑紫君(つくしのきみ)」

▲筑紫君磐井(八女市岩戸山歴史文化交流館正面にある石像)(【引用】八女市ホームページ

筑前・筑後を含む北部九州一帯には、ヤマト王権に属する「筑紫君磐井(いわい)」のような有力者が存在しました。

特に「磐井の乱」(527年)が有名で、日本書紀によると磐井は筑紫国造でありながらヤマト政権に反旗を翻した人物とされています。

「磐井の乱」は、継体天皇の時代の527年に始まり、翌528年ヤマト王権により鎮圧された日本古代史上最大の内乱と言われています。ヤマト王権側から見れば、朝鮮半島の西南部の国「百済」を助けるためのヤマトの援軍を、ヤマト王権に不満を持っていた筑紫国造磐井が新羅と手を組んで反抗。ヤマト王権軍の行く手を妨害したため、起こった反乱のようにいわれています。

九州側から見れば、ヤマト王権による軍事的負担を強要に不満をもった九州の諸豪族が「筑紫君磐井」を盟主として結集し起こした反乱、ヤマト王権からの圧力に耐えかねた磐井を中心とした豪族たちが、自らの権益を守り、ヤマト王権からの独立を目指した「独立戦争」とも考えられるようにもなっているようです。

【引用】筑紫君磐井と岩戸山古墳 磐井の乱と安曇族移動の話 | トラベルマガジン | 休暇村公式ホームページ

「磐井の乱」の影響で、北部九州の豪族たちの勢力図は大きく塗り替わったと考えられており、その後、ヤマト王権はこの地の支配を強化しました。

このことから、「竹原古墳」に埋葬された人物は、磐井の後継時代の有力豪族であり、ヤマト政権に協力的な立場にあったと推測することが可能でしょう

外交・軍事拠点としての北部九州

この時代、朝鮮半島(百済や新羅)との交流も活発で、鉄・馬具・武器などは半島からもたらされました。

北部九州はその外交・軍事の最前線であり、馬具や武器が副葬されるような人物は、大陸との関係も担っていたエリート層と考えられます。

筑紫君磐井亡きあと、ヤマト政権からこの地を任された豪族がいた?

▲物部麁鹿火(【引用】物部麁鹿火 – Wikipedia

筑紫君磐井は、ヤマト王権に従わず、新羅との通交や独自の政治判断を行ったため、中央政権にとっては「危険な地方勢力」とされていたようです。

その結果、527年に「磐井の乱」が勃発し、磐井はヤマト政権から派遣された物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の軍によって討たれます。

そして磐井の子・葛子(くずこ)はヤマト政権に降伏し、「筑紫君」という地位・一族は力を大きく削がれた、とされています。

日本書紀には乱後のことが記されています。

12月に、筑紫君葛子は、父(磐井)に連坐して誅せられるのを恐れ、糟屋屯倉(かすやのみやけ)(福岡県粕屋郡か)を献上して死罪を贖うことをこうた。
『日本書紀 下』p.26(井上光貞)

屯倉(みやけ)とはヤマト王権の直轄地のことです。ヤマト王権は、磐井を倒して筑紫君を弱体化させることで北部九州の勢力を削ぎ、糟屋屯倉を手始めに次々に屯倉を設置していきました。そして、博多湾沿いに那津宮家(なのつのみやけ)を設置することで、これまで筑紫君が持っていた外交権をも奪い、外交窓口を一元化して完全に手中に治めたとされています。

その後、地方は「国」という単位に分割され、これを管理する役職は国造とされました。ヤマト王権がその任命権をもつことで、地方支配を徹底させていきます。磐井の乱は、ヤマト王権が中央集権的な支配体制に向けて歩み始める転機となったのです。

【引用】岩戸山古墳|筑紫君磐井の墓?ヤマト政権の下で磐井の乱が起きた理由 – 史跡ナビ

ところで、「竹原古墳」とは直接関係ないので詳細は省きますが…。

日本最古の正史である「日本書紀」と、同時代に各国で作成された行政報告書である「筑後風土記」では「磐井の乱」に関する記述内容が違うらしいんですけど…なんかきな臭くないですか?

その後、ヤマト政権はどう対応したか?

ヤマト王権は、磐井の乱を「単なる反乱」ではなく、地方支配の転換点と見ていたと考えられます。

「竹原古墳」のような規模の古墳は、ヤマト王権の支援や承認がなければ築造できなかったため、この地にいた被葬者は、

  • 磐井後の秩序を担うために登場した新たな地域支配者
  • あるいは元からいたが、政権に忠誠を誓ったことで地位を保った豪族

だった可能性が非常に高いと考えられるのです。

「竹原古墳」の被葬者=「大和政権から任された地方統治者」説

出土品の質・量(馬具・鉄製武器)から見ても、被葬者は地域の武力と政治力を握る人物だと考えられます。

6世紀後半という築造年代からみて、磐井の乱から30年も経っていない時期。

このことから、ヤマト政権が“ポスト磐井体制”として整えた地域再編の一環として、“「竹原古墳」の被葬者=この地を任された豪族の墓”とみなす説は説得力がありそうです。

歴史的背景と考古学的知見から被葬者の正体を考察

これまで記述してきた内容を踏まえつつ、6世紀後半の北部九州の歴史的背景や考古学的知見も考慮しながら被葬者の人物像を改めて整理していきます。

1. ヤマト政権と連携した地方豪族

6世紀後半、ヤマト政権は地方支配を強化しており、北部九州にもその影響が及んでいました。

竹原古墳の被葬者は、ヤマト政権と連携し、地域の統治や軍事的役割を担っていた地方豪族であった可能性があります。

出土した馬具や武器類は、その地位や役割を示すものと考えられます。

2. 朝鮮半島との交流を持つ外交官的存在

北部九州は朝鮮半島との交流の窓口として重要な地域でした。

被葬者は、百済や新羅との外交・交易に関与し、外来の技術や文化を取り入れる役割を果たしていた可能性があります。

出土品の中には、朝鮮半島由来と考えられるものも含まれており、その関係性を示唆しています。

3. 地域の軍事的リーダー

出土した武器や馬具から、被葬者は地域の軍事的リーダーであったと推測されます。

ヤマト政権の命を受けて、地域の防衛や治安維持を担っていた可能性があります。

また、諏訪神社が古墳の上に建立されていることから、後世においてもその軍事的な側面が尊重されていたと考えられます

総合的な人物像

これらの考察を総合すると、「竹原古墳」の被葬者は、

  • ヤマト政権と連携し、
  • 地域の統治や軍事的役割を担い、
  • 朝鮮半島との交流にも関与していた地方豪族

であったと考えられます。

その多面的な役割から、地域社会において重要な地位を占めていた人物であったことが推測されます。

“そうではない人物”の可能性は?

ここまでの情報をまとめると、「竹原古墳」の被葬者はヤマト政権に協力した地方豪族」という説が濃厚です。

…ですが、被葬者が「ヤマト政権と連携し、地域の統治や軍事的役割を担い、朝鮮半島との交流にも関与していた地方豪族」ではない可能性はゼロなのでしょうか。

これまでとは異なる視点を踏まえた別の被葬者像の可能性はないのか、ChatGPTに考察してもらいました。

1. ヤマト政権に対して一時的に自立性を持っていた豪族

「竹原古墳」は磐井の乱(527年)の約30年後に築かれたと推定されます。

この時期、ヤマト政権が全国を完全に掌握していたわけではなく、一部地域ではまだ“半独立的な在地勢力”が残っていたと考えられます。

したがって、「竹原古墳」の被葬者は、かつて磐井と連携していた在地勢力の残党や、ヤマトの完全支配以前に自立していた豪族の末裔である可能性もあります。

→ たとえば「かつての“磐井派”だが、乱後に巧みに立場を変えて生き残り、地域に根付いた古参の家系」

2. 大陸文化の受容に長けた「文化仲介者」型の首長

出土した馬具や鉄器類は、武力だけでなく技術的・文化的知識を持ったエリート層の存在を示唆します。

したがって、被葬者はヤマト政権と直接的な軍事連携をしていたというよりは、対外交渉や技術導入を担った「文化仲介者」の可能性もあります。

→ たとえば「朝鮮半島や大陸と繋がりを持ち、鉄器・馬の管理・儀礼を通じて地域に技術と威信をもたらした知識階級的首長」説

3. 宗教的・祭祀的なリーダー

「馬具や鉄器がある=戦士」という捉え方が主流ですが、それらを祭祀や儀礼に用いていた可能性も否定できません。

「竹原古墳」の上に諏訪神社がのちに建てられているという点からも、聖なる場所」としての継承性を持っていたのかもしれません。

この場合、被葬者は軍事+宗教的指導者という二重の役割を持っていた可能性があります。

→ たとえば「地域の守護神と交信し、武威と霊威の両方で人々を導いた“戦巫”のような存在」説

4. ヤマト政権に反感を持っていたが、表向きは従属していた人物

歴史に残るのは「勝者の側の記録」であることが多く、形の上では従属していたが、実際には対抗心を持っていた地方勢力も存在したと考えられます。

古墳の築造や副葬品の配置に、独自の思想や系譜が表現されていた可能性もあります。

結局、「竹原古墳」の被葬者はどんな人物か

竹原古墳の壁画には「冠を被った人物」「四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)」「火を吐く龍」などが描かれており、これらは朝鮮半島の高句麗や百済の壁画古墳に見られる図像と類似していることから、大陸文化の影響が大きい=竹原古墳の被葬者やその周辺が大陸文化と深い関わりを持っていた可能性が高いことが推測できます。

  • 6世紀は、倭国が百済・新羅など朝鮮半島諸国と密接な交流を持っていた時期。
  • この時代、百済から渡来した 技術者・知識人・軍人 などが多数日本に移住している。
  • 九州北部はその玄関口で、実際に渡来系の豪族が定住した例(秦氏など)もある。

以上のことから、竹原古墳の被葬者が百済・高句麗などからやって来た人物、あるいはその子孫という説も成り立たないわけではなさそうです。

ですが、ChatGPT曰く、多くの研究者が重視するのは“被葬者は「倭人」だが大陸的文化を取り入れた説”とのこと。

主な理由としては、

  • 大和政権と連携するため、もしくは自身の権威づけのために、当時“先進的”とされた大陸文化を積極的に採用した倭人豪族というケース。
  • 壁画に「大陸風の表現」を使うのは、自分の知的・文化的・軍事的格を誇示するため。

たとえば「海を越えて来た馬や龍を従えた男の姿」は、実際の航海を意味するだけでなく、“海を越えるほどの力・威信”を象徴する政治的アイコンでもある、と。

 

で。

 

結局のところ「竹原古墳」の被葬者はどんな人物と考えられるのか。

素人がChatGPTの力を借りて長々と考察してみましたが、結論は下記の通りでこの記事の締めといたします。

  • ヤマト政権と連携した地方豪族(ヤマト政権から任された地方統治者)
  • 朝鮮半島との交流を持つ外交官的存在
  • 地域の軍事的リーダー(「筑紫野君磐井の乱」以降にやってきてこの地を治めた人物?)
  • 大陸出身者、または大陸との血縁・文化的関係を持つ倭人の豪族
  • 外交と軍事の両面に優れた国際色豊かな地域指導者

 

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