注文したカレーを数口食べたタイミングで、斜め前に座っている女性客のコートが床に落ちた。
イスの上にふわっと畳んで置かれていたコートが落ちた。
滑るように、床に吸い込まれるように、静かに落ちた。
コートの持ち主はそのことに気づいていない。
話に夢中なのか、持ち主の友達(当人の向かいに座っている)もコートの落下に気づいていない。なんで気づかないんだよ。
ここが普通のカレー店なら、「コート落ちましたよ」と気づいちゃった私が声をかければ済む話。
ところが、ここはくっっっそおしゃれな、例えるなら都会の裏路地にある隠れ家カフェのようなカレー店なのである。
大きな窓からレースカーテン越しに差し込む柔らかな太陽の光。
1つとして同じものを配置していないアンティーク調のテーブルとイス。
テーブルに置かれた一輪挿しとペライチのシンプルなメニュー表。
天井に吊るされた高価そうな多面体(木彫)のスピーカー。
店内を支配するコーヒーの香り。
仕切りのない浅い銀色のプレートに盛り付けられた、体を内側から温めてくれるこだわりのスパイスカレーと葉ものメインのサラダ。
極めつけに客は女性ばかり、それが数組いらっさる。
そんな環境のなか、ヒゲでロン毛である私(男)が女性客に声をかけるということのリスクというか他人の視線がちょっと厳しいものがないかねえという話になってくるわけで。
どうすることもできないまま、とりあえず私は目の前のカレーに集中することにした。
注文したのは、バターチキンカレーとキーマカレーの合掛け。バターチキンカレーは正直薄く感じてイマイチな印象だったのだが、キーマカレーがめちゃくちゃうまい。
ゴロッとしたひき肉を感じていると、ひき肉とほぼ同じサイズにカットされたコンニャクの食感が紛れ込んでくる。こんなのはじめて!
カレー自体のスパイス感も強すぎず、でも弱いわけではなくて、食べ進めると口内で味が蓄積増幅していくような感覚。スプーンが止まらない。
…ただ、米が足りない。
カレーとご飯の量がおしゃれカフェすぎる〜。
・・・。
目線を卓上のカレーから斜め前の席に移す。
コートは床に落ちたまま。当人も、その友人もいまだに気づいていない。
どんだけ楽しい話してるんだよ!
「視界の端っこで何か動いたなー」とか1ミリもないのかよ!
さてどうする…。
俺はもうカレーを食べきってしまうぞ…。

スプーンを置いて、カレーとセットで注文していたホットジンジャーエールに手を伸ばす(時間稼ぎ)。
グラスの底には刻んだショウガが大量に沈殿しており、口を近づければジンジャーのフレイヴァーが積極的に鼻腔をくすぐってくる。
口に含めば、ショウガの強い風味が舌、頬の内側、喉を刺激する。
・・・。
再びカレーに戻りつつ、斜め前をちらり。
落ちたままのコートが見える。ああ、まだ気づいていないわ。
もしかして一生気づかないつもりなのか?
食べ終わって、話し終わって、退店するまで一生気づかないつもりなのか?
というか、お店のスタッフさんも他のお客さんもどうして気がつかないんだ…?
…仕方がない。
カレーをあとひと口カレーを食べて、そのあとでホットジンジャーエールをひと口飲んだら「あ、コート落ちましたよ」と声をかけよう。
ずっと前から気づいていたけれど、さも「あ、今落ちましたよ!」のテイを貫こう。
そのほうが自然だし、たぶんきっと絶対にそのほうがいい。
そう決意し、丁寧にすくったキーマカレーを口に運ぶ。
うん、うまi…そのときっっ!!
コートの持ち主はバッグから何かを取り出そうと姿勢を変えたことで、コートがイスの下に落ちていることに気がついた!
「あ、落ちてた」
「ほんとだ!ごめん、気づかなかった笑。それでさ〜」
やっっっと気づいた〜。
その程度の反応なら、わざわざ声かけなくて本当によかった〜〜。
私は安心してカレーに戻った。
残り少ないカレーとご飯がなかなかスプーンに載ってくれない。「縁がほとんどない皿の形状のせいかな」と皿を少し傾けると、サラダにかかっていたドレッシングの残りがカレーとご飯を侵食。
仕切りのないワンプレートが仇になっている。
おしゃれカフェすぎる〜。
…ドレッシングが混ざったことでカレーがさらに進化した。
なにこれめっちゃうまい…。
他人のコートが落ちたことより先に、この食べ方に早く気づくべきだった。
1989年7月生まれ。のらエッセイスト
