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「イゾラド」と「熊」と「もののけ姫」

雑記

10年ぶりに姿を現した南米アマゾンに住むイゾラドを取り上げた、NHKスペシャル「イゾラド 最後の森の奥で」という番組(配信期限:11月23日(日)午後9:49まで)を見た。

※イゾラド(【西】Indios Aislamiento/【葡】Indios Isolados)とは、文明社会と未接触の先住民を言い表す総称

 

イゾラドは自然側の存在で、多くの動物と同じように自然界の循環のなかで生きている。そんな彼らが人里にやってくるということは、自然界の循環がおかしくなっているということだろう。

普通に考えて、ポジティブな意味で人間とコンタクトを取りに来ているとは思えない。そうしないと生きていけなくなっているのではないか。

そしてそれは、日本で問題になっている熊も同じではないか。

領域を先に侵したのは人間だ。にもかかわらず、自然側からの来訪者に対して「駆除だ」「監視だ」いうのは都合が良すぎじゃないか。地球の王者にでもなったつもりか

…とはいえ、人間だって確立してきた人間社会を守る必要はある。いまさら昔の生活には戻れないのも事実である。

ならば自然をもっと敬うべきだろう。

 

人間がいなくても森は育つ。太陽が海をあたためて雲を生み、雲は雨となり、川となり、やがて海に帰る。地球は風を生み、風は植物を運び、植物は動物の糧となり、動物の糞は大地と植物の糧となる。

これらの循環によって海の栄養は大地に移り、大地の栄養は海に流れる。

人間だって昔はこの循環のなかの存在だったはずだ。

 

いま読んでいるロビン・ウォール・キマラー著『植物と叡智の守り人』にこんな記述がある。

私たちは、彼らの足元に座ってその声を聞くことができる。ポタワトミ族に伝わる物語よれば、あらゆる植物と、人間を含むあらゆる動物が、かつては同じ言葉を話していた。自分たちの暮らしがどんなものかをお互いに伝え合うことができたのだ。だがその力は今では失われ、私たちはその分貧しくなってしまった。

【引用】ロビン・ウォール・キマラー著『植物と叡智の守り人』 P323より

※ポタワタミ族とは北アメリカの先住民族、つまりネイティブ・アメリカンの一族のひとつ。

人間ももともとは自然の一部だった。だから草木ともコミュニケーションがとれた。しかし、いつしか植物やほかの動物たちとは異なる独自の言葉を使うようになり、自然界の循環から離れ、独自の循環のなかで生きるようになった。

何らかの理由で故郷であるはずの自然から距離を取るようになった。あるいははぐれてしまったのかもしれない。

 

近代化に伴い、「良いものを長く使う時代」から「あらゆるものをシーズンごとに買い替えて使う時代」に変わった。

人間は年々、ものの扱いが少々ぞんざいになってはいないか?自然界から離れた人間独自の循環のなかで生まれた資本主義的な物差しで自然を測ろうとすれば、当然ながら自然はそれを許さない

 

「イゾラド」を見るより前に、先日、映画館でスタジオジブリの名作「もののけ姫」を鑑賞した。子どものころに映画館や金曜ロードショーで何度か観ているはずなのだが、「…こんな話だったっけ」の連続だった

こんなに深いところで自然(神々)と人間(神を恐れず敬わなくなった民)の関係と対立を描いていたのか…。

 

かつて日本列島に住んでいた人間は自然と共存していたといわれている。

それが仮に縄文人のことで、つまり大和朝廷との戦いに敗れ東北に逃げ延びた蝦夷の一族だとすると、その血を引くアシタカが自然と人間の板挟みに悩むというテーマはかなり重い

「もののけ姫」に関するさまざまな考察はネットにたくさん転がっているのでこれくらいにしておいて…。

このタイミングでリバイバル上映されたのは何らかの意図があるのでは、なんてちょっと思ってみたりして。

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