サイトアイコン SLOTH-STUDIO

西郷隆盛に関する豆知識(写真がない、銅像が似てない、など)

上野公園にある西郷隆盛銅像(wikipediaより引用)

2018年の大河ドラマが「西郷(せご)どん」に決まり、九州、特に西郷の地元である鹿児島では来年に向けてかなり盛り上がっているようです。

鹿児島が誇る偉人で、坂本龍馬や勝海舟からも一目置かれていたほどの大人物。地元では昔からスターとして人気の高い存在です。

そういう時事的なこともあり、先日仕事で西郷隆盛について調べることがあったので、そのときに仕入れたトリビア的な情報をここにまとめておきます。

西郷に関する情報を探している方へ、何かしらの参考になれば幸いです。

本名は「隆盛」ではなかった

これは有名な話ですが、代表的な”トリビア”として。

明治政府の樹立に貢献したとして、明治2年に明治天皇より正三位(しょうさんみ)の位階を授かることになりました。

その際、書類に西郷の本名を記入する必要がありました。政府は西郷と連絡を取ろうとしますが、そのころ西郷は函館から鹿児島までを船で移動中だったため連絡がつきません。

急ぎで本名を知る必要があった政府は、西郷の友人である吉井友実(ともざね)を尋ねます。友人なら知っているだろうという判断でした。

しかし、吉井は西郷の本名を聞かれ戸惑います。なぜなら彼は、普段から西郷のことを本名ではなく通称の「吉之助」で呼んでいたため、本名を即座に思い出せなかったのです。

思い出そうと頑張って、頑張って、ようやく出てきた名前が「隆盛」でしたが、実はこの名前は西郷の父の本名。

そんなことを政府は知るはずもなく、その名前を書類に書き込みます。そのまま戸籍も「西郷隆盛」で登録されてしまったため、現在に至る、というわけです。

ちなみに、西郷の本当の名前は「西郷隆永(たかなが)」。

 

写真が1枚も残っていない

かなりの写真嫌いだったといわれている西郷隆盛。

どれだけ嫌いだったかというと、明治天皇が写真を欲しがってもなお撮影を拒否したというエピソードが残っているほど。

現在では、暗殺を恐れて撮影しなかった(させなかった)、単純に撮影する機会に恵まれなかった、など写真が残っていない理由はいくつかの説があるようです。

明確に本人を参考にして書かれた肖像画は存在しない?

一番有名な肖像画で、イタリア画家のキヨッソーネ作のもの(おそらく教科書などで目にしていると思います)がありますが、これは顔の上半分を西郷従道(西郷の弟)、下半分を大山巌(西郷のいとこ)の顔をモデルに作り上げた、いわゆるモンタージュ。

作者のキヨッソーネ自身は西郷との面識はありません。

エドアルド・キヨッソーネ作の版画(wikipediaより引用)

ただしこれには続きがあって、本人を見て描いたものではありませんが、親族らから「似ている」とお墨付きをもらっています。

我々が西郷隆盛と聞いてこの顔を思い出すことは、あながち間違いではない??

 

銅像が似ていない!?

西郷隆盛の銅像といえば、上野公園にあるものを思い浮かべる人多いのではないでしょうか。

作者は彫刻家の高村光雲。明治31年にお披露目されたこの銅像、実は除幕式に西郷の妻・イトが参列していました。

幕がおろされたとき、イト夫人はこう言ったそうです。

「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」

※wikipedia「西郷隆盛」項より引用

この薩摩弁は「似ていない」ではなく、「人前でこんなラフな格好をする人じゃない」という意味だったともいわれています。人前に出るときは着流しじゃなくてちゃんと身なりを整えていた、と。

なお、西郷の地元・鹿児島市にも西郷隆盛銅像は存在します。

鹿児島市にある西郷隆盛銅像(wikipediaより引用)

こちらは昭和12年に制作されたもの。

銅像の作者は、西郷と同じ鹿児島出身で初代忠犬ハチ公の銅像も手がけた安藤照氏で、昭和3年に東郷平八郎から依頼を受けて制作したものです。

軍服を着て、背筋をまっすぐに直立する様はまさに武士。もしかすると、イト夫人の言葉に影響を受けての服装かもしれません。

※鹿児島県霧島市にも、実在の人物像としては日本最大級である10.5メートルの西郷隆盛像がありますが割愛。あげてったらキリがないので。。

 

プライベートも波乱万丈

江戸無血開城に関する記念碑(wikipediaより引用)

若い頃は島津斉彬に仕え全国をまわり、江戸無血開城を実現し、最後は西南戦争で人生を終えるとまさに波乱万丈な一生をおくった西郷隆盛。

晩年、帰郷から西南戦争までは平和的な暮らしをしていたようですが、それまではプライベート(?)も波乱万丈でした。

自殺未遂をしている

安政5年、島津斉彬が病によって死んだという報告を受けた西郷隆盛は「死んでしまおう」と思うほどに落ち込みました。その自死を止めたのが、清水寺成就院(京都)の住職・月照(げっしょう)です。

しかしそんな月照は安政の大獄により追われる身となります。そこで西郷、助けられた月照を今度は自分が助けようと一緒に京都を脱出し、薩摩へと逃亡を図りました。

が、薩摩藩としては政府から罪人扱いされている月照をかくまうのは気が乗らない(=メリットがない)。

そこで薩摩藩は西郷に、月照を「日向送り」にするよう命じます。「日向送り」とは、薩摩と日向の国境で切り捨ててしまえ、という命令です。

これに西郷は反発。それなら俺も死ぬ、といわんばかりに月照とともに錦江湾に身を投げました。

同船していた者たちにより西郷は引き上げられ、のちに息を吹き返します。

なお、月照はこのときに死亡。月照の墓は清水寺と、西郷の菩提寺である南洲寺に建てられています。

島流しに2回あっている

奄美大島(イメージ)

1回目の島流しは罪人としてではなく、幕府から身を隠すために薩摩藩が仕組んだものでした。

というのも、前述の月照という罪人をかばったことで西郷は幕府から注視されていました。

そのため、薩摩藩は「西郷は入水して死んだ」と公表し、西郷を奄美大島に送り、幕府をなだめていたと。そういうわけで、これは厳密には「島流し(流刑)」ではありませんね。

ちなみにこのとき、西郷は奄美大島では「菊池源吾」と名乗り、比較的自由にのどかに過ごしたとか。島の名家の娘とも結婚をし、子供ももうけています。

このときの島での暮らしは安政6年から3年間ほど続きました。

2回目は正真正銘の「島流し」です。

島津久光の召喚により本土に戻ってきた西郷は、久光のもとで再び薩摩藩士として動き出しました。しかし、ここで久光と西郷が対立します。

久光の上洛計画に西郷は反対をしたのです。「あなたは人望がないから無理だ」的な、ちょっと失礼に値する物言いをしていたとかで、一国の藩主に向かってそんな口をきいたらどうなることか。

いったんは大久保利通が間に入り、西郷はしぶしぶ久光の命に従うのですが、両者険悪なムードのまま。

その後、久光の計画において「”久光と合流して”上洛せよ」といった命令が出ていましたが、西郷はそれを無視。合流を待たず大阪へと立ちます。

実はこれ、久光をよく思っていない脱藩志士たちが大阪や京都あたりでただならぬ動きをしている、という情報をキャッチした西郷なりの”よかれと思っての行動”でした。が、久光から見れば「あいつまた命令をやぶりやがって」と気に入らない。

これにより奄美大島よりさらに遠い徳之島へと流されてしまったのです。

なお、西郷の座右の銘ともいうべき「敬天愛人」という言葉(思想)は、この2回目の島流しの際に島で学んだことがベースになっているとか。

結婚を3回している

1回目は嘉永5年、28歳のとき。両親に勧められるがままに伊集院兼寛の姉・すが(須賀)と結婚しましたが、西郷は仕事で不在にしていることもあり、すがが伊集院家に引き戻されるような形で離婚。このとき、二人の間に子供はありませんでした。

2回目は上記の最初の島流しで奄美大島に滞在中、島の名家・龍家の娘・愛加那(あいかな)と。島に滞在している間だけの妻で、西郷との間には長男の西郷菊次郎、長女に菊草をもうけました。

菊次郎は2代目京都市長(1904年10月12日〜1911年7月13日)などを務めています。

3回目は慶応元年、39歳のとき。妻は同じく薩摩出身のイトで、このときはイトも再婚だったといわれています。西郷との間には3人の子供をもうけ、さらにのちには西郷と愛加那との間に生まれた子供2人も引き取り、養育しました。

 

かなりの犬好き

上野公園の銅像で西郷が連れている犬は、猟犬である薩摩犬で、名前はツン。実際に西郷が連れていたツンはメスだったのですが、銅像のモデルには薩摩犬のオスが選ばれているそうです。

第一線を退き、今までほど全国を駆け巡らなくなったことが運動不足につながり?、医者に太りすぎを指摘されていました。そのため、散歩や狩猟はダイエットの意味もかねていたともいわれています。その際に犬を連れて歩くようになったとか。

おそらく最初は単純に狩猟のお供だったのかもしれません。

しかし晩年には10匹以上を飼育していたことや、西南戦争時にも犬を連れていたこと、西南戦争の戦地で犬だけは助けたいという思いから犬を離した(自由にした)ことなどが記録として残っています。

このことから察するに、西郷にとって犬は単なる狩猟のお供というより、それ以上の存在であったことが伺えます。

 

個人で調べたことなので、事実と異なる部分もあるかもしれません。その際はご指摘いただけると幸いです。

モバイルバージョンを終了